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悟りと日本刀

悟りと日本刀

そして、何よりも、自分自身が、刀を通じた鍛錬に対し、どのような悟りを開くことができるのかということが重要です。先ほど、居合道では自分自身と刀を一体に見立てて鍛錬を行うことが重要であると言いましたが、これは、刀を上手に使えるという意味で一体になるのではなく、刀を使っている時の自分自身に一切の心の迷いがないという状態を常に作っておくこと、そして常に作っておくように心がけることこそが刀と一体になるということなのです。多くの人が誤解してしまうことが多いですが、刀と一体になるということは簡単なことではなく、潜在的、かつ、無意識のレベルまでそのような考え方を落とし込む必要があるのです。居合道や武士道に基づいた剣の使いかたや考え方というものがとっさに反射的に出てこないとしたら、それは習得したことにはなってないと言ってしまってもいいかもしれません。無意識、潜在的な意識こそが武士道の本質であると言えそうですね。これが結局のところ悟りにつながっているとも言えます。いささか宗教的にはなりますが、「悟り」というものは全能になることではなく、むしろ分別がつくようになることをさすように感じられます。刀を用いた武道によって会得できる悟りも、この類のものではないかと推察できます。多くの武士が自分自身の死に際に悟りを見たように、厳しい訓練を通じることで、自分がなぜ鍛錬をしているのか、このように天命を悟ることができるレベルまで鍛錬を続けていくことが重要であると言えるでしょうね。スポーツとは異なり、武道の鍛錬は人生に通じるものであり、生き方にもかかわってくるという考え方が古くからなされてきましたから、このように考えられるのはいわば当然なのです。