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大小拵の日本刀
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大小拵の日本刀

16世紀の末から19世紀にかけて、関ケ原の戦い、大阪冬の陣・夏の陣という大きな合戦が繰り広げられました。1600年というきりの良い数字で覚えている人も多いのではないでしょうか。東軍は徳川家康を大将とし、西軍は石田三成を中心としていました。動員兵力は10万人を超えるとも言われており、合わせて8000人ほどの死者を出したとも伝えられている戦いです。最終的には徳川家康が勝利を収めました。大きな合戦であったために、武将たちは戦の準備のために、甲冑師や鉄砲鍛冶、刀鍛冶などの職人集団が繁栄した時期とも言えます。徳川の治世となり、ここを転機として政治や経済、文化に関して時代の流れは大きく変わりました。慶長年間の中頃から、元和・寛永年間にわたった頃に、各種の風俗画がありました。これらの絵の中に、武士が狩衣に代わって肩衣小袖を身に着けて、腰に大刀・小刀の両方を組み合わせて帯用している姿がありました。この組み合わせで持つことを、大小、もしくは大小拵と呼んでいます。この組み合わせは、初めは別々に持っていることも多いようでしたが、江戸時代の初期に入って統一されたことが分かります。これは、花下遊楽図という風俗画から読み取れました。この画は国宝にも指定されており、現在は東京国立博物館に所蔵されています。水墨画の特徴を生かして描かれた、全体的に落ち着いた色合いの作品となっています。八重桜の下で酒宴を繰り広げる図になっていますが、その中には朱塗鞘(しゅぬりさや)の大小拵、梅花皮鮫(かいらぎざめ)鞘大小拵、蛭巻(ひるまき)鞘大小拵といった揃いの大小拵が描かれていました。これらが全て同一であることから読み取れるように、大小一組を腰に差す風習が生まれたのではないかと考えられています。

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