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試し斬りの異名

刀があまり実戦で使われなくなった時代には、日本刀の斬れ味を確認するには、刑死した人間の体を斬ることで確認していました。どの部分を斬ったのか、胴をいくつ重ねて斬ったのか、鍔に重石をつけて斬ったのか、どこまで刃が届いたのか…など、試し斬りに関しては、さまざまな記録が残っています。しかし、中にはその斬れ味に異名がつけられるほど、優れた斬れ味を持った刀もありました。籠釣瓶(かごつるべ)、立袈裟(たちげさ)、古袈裟(ふるげさ)、棚橋、朝嵐、通抜(とおりぬけ)、八文字、大谷川、踊仏、などがあります。どれも斬れ味から連想して名付けられています。例えば籠釣瓶は、籠で作られている釣瓶(井戸の水をくむための桶)は水が溜まらずに落ちていってしまう。つまり、水も溜まらないレベルの斬れ味と言っています。棚橋は、欄干のついていない簡単なつくりの橋のことを言います。その姿が棚のように見えることから棚橋と呼んでいます。欄干がなければ、当然すぐに落ちてしまいます。試し斬りをした首も、同じように簡単に落ちるという意味です。大谷川は、日光にある大谷川を指しています。これは華厳の滝のことであると言われています。華厳の滝は、高さが97メートルある岸壁を一気に落下する大きな滝です。素早く落ちるというところから、よく斬れるという意味を連想させています。踊仏は、袈裟斬りに当てたものと言われています。袈裟をかけている仏が踊ると、肩にかけていた袈裟が簡単にすべり落ちてしまうという意味からです。試し斬りの異名は数多くあり、どこか洒落たような単語選びをしていることが分かります。試し斬りによってつけられた異名は、刀の茎に刻むことで称賛をして、その凄さを示しました。
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越前国の汎隆

汎隆というのは、江戸時代前期の越前国の日本刀・新刀の刀工だそうです。初代は康継の門人だそうです。通常見るのは、二代汎隆だそうです。藤兼というのは、江戸時代前期の美濃国の人だそうです。冬廣というのは、江戸時代初期の安芸国の人だそうです。高橋源次兵衛。若狭国小浜から安芸国広島に移住したそうです。芸州冬廣の祖となるそうです。方清というのは、江戸時代前期の長門国の日本刀・新刀の工だそうです。方清初代で、阿武郡萩に住んで、そののちに府中に移ったそうです。正商は江戸時代中期の薩摩国の人だそうです。正清というのは、江戸時代中期の薩摩国の日本刀・新刀の工だそうです。丸田正房の門人だそうです。薩摩藩の抱え工だそうです。一平安代とともに江戸に上って、浜御殿で御前にて打ったそうです。一葉葵紋を賜って、上京して主水正を受領したそうです。吉宗の命令で二尺五寸を超える刀を鍛えるなどして、吉宗の覚えはめでたかったそうです。正次というのは、江戸時代前期の肥前国の人だそうです。境林十郎。伊豫掾宗次の子だそうです。初銘は宗安だそうです。佐賀藩主鍋島勝茂より宗安の名を賜ったそうです。のちに祖父正次の名跡を継承して、伊豫掾二代となったそうです。正照というのは、江戸時代前期の武蔵国の人だそうです。法城寺正弘の高弟だそうです。上京して伊賀守金道二代に入門したそうです。越前守を受領して菊紋を許されるそうです。のちに出羽国秋田に移ったそうです。正俊というのは、江戸時代中期の山城国の人で、濃州兼道の子だそうです。伊賀守金道・和泉守来金道・丹波守吉道の弟だそうです。朝廷の御用を勤めたそうです。越中守を受領したそうです。二代以降は、茎に菊紋を刻するそうです。

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文武両道の士「伊東甲子太郎」

北辰一刀流を極めた文武両道の士などと言われた伊東甲子太郎(いとうかしたろう)は、当初、新撰組でありましたが、分裂し近藤勇暗殺を企てることによって逆に新撰組に謀殺されたようです。新撰組の参謀でもあった伊東甲子太郎は、 新撰組内での活躍を期待されていたのですがその思想との対立によって、倒幕派として新撰組を後にするのです。その後、近藤勇、土方歳三の暗殺計画を企てますが、斎藤一がこの計画に気づくことで、襲撃を受けることになったようです。伊東甲子太郎の遺体は、その場で放置されることによって、遺体収容に駆けつけた同志たちを襲撃するための、おびき寄せる道具として使われたようです。壮絶な最期を迎えた伊東甲子太郎は、享年33年ではありましあたが、幕末の動乱期を駆け抜けました。新選組には、その優れた剣術が見込まれてスカウトを受けたようです。その際には、尊王攘夷派であると説明を受けた新選組が、佐幕派であることから対立し分裂した辞典から、大きく運命の歯車が動き出したとも言えるかもしれません。北辰一刀流の名士であった伊藤甲子太郎であったこその運命であったのかもしれません。王政復古を目の前にした、わずか3週間前の死であったようです。

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居合道で学ぶ日本刀

日本刀を理解しようとするとその奥は深いなどとも言われています。日本刀を鑑賞する中で、過去の時代で実際に星たちによって使われていた刀を、実践的に試してみたいなどと考える方々も多くいらっしゃるのではないかと思われます。日本刀を使う武道である居合道とは、日本刀を扱う唯一の葡萄でもあるようです。居合道の歴史は戦国時代にまで遡り、急所を狙い一撃で敵を倒すといったような剣術を学ぶ武道であるようです。現在では様々な流派が存在しているようですが、実際に重さやバランスなどをコントロールしながら鍛錬を積むことはインスタントに手に入れられるような剣術ではないようです。刀剣を実際に実践で扱う中で、本来星たちが求めたであろう価値のある刀剣というものが、実感できるなどと考えているコレクターもいるようです。実際、剣術を学ぶ道場では、刀剣コレクターたちの入門も少なくないようです。刀剣に関する学びの他にも、日本刀を愛でた武士たちの礼儀作法なども学べることで 、より日日本刀を身近に感じられるかもしれません。

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刀剣愛好家たち

刀剣をコレクションしたいと考えても、実際に刀剣ショップなどの専門店に足を踏み入れることはなかなか難しいかもしれません。月の高さを感じていらっしゃる方は、刀剣市や、刀剣まつりなどのイベント事などにまずは参加してみるのはいかがでしょうか。場合によっては、展示会などで、貴重な品に触れることができることもあるようです。即売会などでは実際に気に入った品を購入することもできるようです。実際に初めて購入するコレクションとしては、お店の店員さんとかおなじみとなってお話ができる程度まで、打ち解けていられると良いようです。刀剣は、購入後のメンテナンスや保管などが大変慎重に行わなくてはならないようですので、購入前に予めショップ店員さんなどから様々なアドバイスを受けておくと良いのではないでしょうか。最近では、アニメやゲームなどの影響もあるのか若い世代の人々や、女性の人気が高いようです。また海外の人々たちからも注目を集める日本刀は、時代とともに忘れ去られるのではなく、ブームを沸き起こしながら愛好家を増やしてもいるようです。

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大小拵の日本刀

16世紀の末から19世紀にかけて、関ケ原の戦い、大阪冬の陣・夏の陣という大きな合戦が繰り広げられました。1600年というきりの良い数字で覚えている人も多いのではないでしょうか。東軍は徳川家康を大将とし、西軍は石田三成を中心としていました。動員兵力は10万人を超えるとも言われており、合わせて8000人ほどの死者を出したとも伝えられている戦いです。最終的には徳川家康が勝利を収めました。大きな合戦であったために、武将たちは戦の準備のために、甲冑師や鉄砲鍛冶、刀鍛冶などの職人集団が繁栄した時期とも言えます。徳川の治世となり、ここを転機として政治や経済、文化に関して時代の流れは大きく変わりました。慶長年間の中頃から、元和・寛永年間にわたった頃に、各種の風俗画がありました。これらの絵の中に、武士が狩衣に代わって肩衣小袖を身に着けて、腰に大刀・小刀の両方を組み合わせて帯用している姿がありました。この組み合わせで持つことを、大小、もしくは大小拵と呼んでいます。この組み合わせは、初めは別々に持っていることも多いようでしたが、江戸時代の初期に入って統一されたことが分かります。これは、花下遊楽図という風俗画から読み取れました。この画は国宝にも指定されており、現在は東京国立博物館に所蔵されています。水墨画の特徴を生かして描かれた、全体的に落ち着いた色合いの作品となっています。八重桜の下で酒宴を繰り広げる図になっていますが、その中には朱塗鞘(しゅぬりさや)の大小拵、梅花皮鮫(かいらぎざめ)鞘大小拵、蛭巻(ひるまき)鞘大小拵といった揃いの大小拵が描かれていました。これらが全て同一であることから読み取れるように、大小一組を腰に差す風習が生まれたのではないかと考えられています。

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「折り紙付き」刀剣

「折り紙付き」とは、保証の付いた安心できるものであるというような意味合いで、日常的な会話の中で使われていますが、この「折り紙」とは、一体どんなことを意味しているかご存知でいらっしゃいますか?江戸時代において、刀剣を鑑定した際の鑑定書を「折り紙」としたようです。その中でも、刀剣の鑑定のスペシャリストとして本阿弥家の存在が。本阿弥家とは、足利家、徳川家などに仕え、書や陶芸に特に秀でていたようです。また刀剣の研磨などにも携わり、刀剣に関する豊富な知識を蓄えていたようです。このような身術や芸術に関する専門知識などから、刀剣鑑定のスペシャリストの一族として繁栄していたようです。この本阿弥家が刀剣を鑑定した際に鑑定書として付属されていたものが「折り紙」であったようです。刀剣の価値を証明する保証書という意味合いで、現代にも使用される「折り紙つき」というような慣用句の語源とされています。本阿弥家の鑑定書には、刀剣の格付けやそれに値する価格のようなものが表記されていたようです。

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刀剣の希少性と価値

刀剣をコレクションする際には、その価値を見極めるにあたり、希少性にポイントを置いて見ることで、その価格や価値を見極めるヒントになるのではないでしょうか。 刀剣をコレクションする人の中には、観賞用の刀として手に入れる場合と居合い用の刀がなどがあるそうです。「模造刀」などと呼ばれる刀剣は、希少性は、大変低くアルミ製ジュラルミン製の型抜きである場合が多いようです。保存やメンテナンスを考えると、とても手に入れやすいジャンルであることは確かです。また、このような「模造刀」であっても、「拵」の装飾部分に関しては、一般的な日本刀と同じ技法で作られていることが多く、手軽に日本刀を観賞用として手に入れたいと考える人々にとっては、コレクションしやすいものではないでしょうか。実際に日本刀を手に入れることによって、価値のあるものほど、そのメンテナンスや保存方法が重要となってきます。実際に、年代や時代背景に関しては、価値のある刀剣であったとしても、保存状態が良くなければ希少価値が高いとはいえないようです。 

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刀剣商をパートナーに

日本刀をコレクションする際に、やはりその価格は気になってくる重要なポイントとなりますが、刀剣の相場はそ、の人気ぶりなどからによっても、変動すると言われています。ファッションなどでも同様ですが、大量生産された既製品よりもオーダーメイドされたいってものの方が、お値段が高くなってしまうように、刀剣も、市場で手に入りやすいものは、比較的相場が低くなると考えられています。専門知識を持っていないと、なかなか足を踏み入れることが難しいと考えがちですが、刀剣を見極める上で、何よりも重要なことは、作者であるなどとも言われています。また、実際に有名な作者であったとしても、その出来栄えによっても相場が大きく左右されると考えています。有名な刀工の作品であったとしても、傷や失敗があったりするようであれば、やはり価格敵に安価になることは確かでしょう。刀剣の価格や相場に関しては、それなりの理由があるものですから、そのような事情を把握することによって、価値や価格が見合うものであることを見極めるものさしとしてみてください。 刀剣を見極めるには様々な要素が必要となってきますが、専門知識を得る上でも、刀剣商などの専門家などから様々なアドバイスを受けることなどが一般的であるようです。

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刀匠

日本刀の光沢は大変美しく、その刀身は確かな位置を占めています。しかしそれだけでは満足しなかったのが刀匠でした。刀匠は完璧主義者ですから、刃文のデザインにも拘り始めたのです。刃文のデザインに心血を注ぎ始めるその熱意はどこから来るのでしょうか。元々古代の刀工は、中国の刀剣を真似て造る職人でした。つまりギミックの製作者に過ぎませんでした。流派も無く、ただ仕事を受注するばかりでした。古事記や日本書紀を参照しても分かるように、中国や朝鮮の技術には追い付いていなかったのです。しかし平安時代に入ると、状況は一変しました。日本刀に反りと呼ばれる形象が加わり、独自の技術が発展し始めたのです。それを支えたのは、刀匠の技術、意匠でした。上手な刀匠、センスのある刀匠は流派を形成し、いわゆる五大流派が生まれました。流派の誕生後も全国で刀匠は育成され、その技術は磨かれました。江戸時代には藩ごとの特産品というイメージも付随して、刀剣造りは盛んになりました。名匠と呼ばれた刀匠は武士の細かなオーダーに対応すべく、自分で磨いた意匠と技術を余すことなく発揮したのです。刃文の受注も元々はクライアントの細かな注文がきっかけでした。以後は徐々に刀匠自身が熱を入れるようになり、優れた刀匠が刃文に拘ることが慣習化されたのです。刃文の模様は時代が下るにつれて多様化し、鮮やかな模様が刀身に刻まれるようになりました。